「祈る人間を写す」
葬祭部の義積です。先日、丹波市の植野記念美術館で開催されていた、土門拳さんの写真展に行ってきました。
写真の講師の先生や、所属している丹波写友会の先輩方が口をそろえて「昭和を代表する写真家だから、見に行って損はない」と言われていたのです。私は名前も初めて聞いたので、「どんな人で、どんな写真を撮るのだろう」と思いながら足を運びました。
土門拳さんは、昭和を代表する写真家です。徹底したリアリズムにこだわり、『ヒロシマ』や『筑豊のこどもたち』などの社会派作品を発表する一方、『古寺巡礼』では日本の伝統文化や仏像を撮り続けました。今回の展示も、その『古寺巡礼』が中心でした。
見終わった感想を一言でいうなら、「好きです」。私の好きなものが、そこには詰まっていました。
私はもともと寺院仏閣が好きで、地元だけでなく奈良や京都までよく出かけます。森田石材店に入社してからは、お墓や石仏、古い仏像にも惹かれるようになりました。仏像の柔らかな表情や、力強いまなざしを見ると、今でもワクワクします。
そして、それらの多くは、はるか昔に作られたものです。当時の人々は、どんな想いで仏像を見上げ、手を合わせていたのだろう――そんなことを考えてしまいます。
土門さんの写真は、単に「美しい仏像」を撮っているわけではないように感じました。
少し欠けた指先。
薄暗い堂内に差し込む光。
そして、クローズアップされた顔や手。
そこには、人々が何百年も手を合わせ続けてきた時間が写っていました。
日本の宗教は、「信じる」というより、「寄り添う」に近い気がします。
苦しい時だけ手を合わせる。
亡くなった人を思い出して線香をあげる。
名前も知らない誰かの幸せを願う。
そんな小さな祈りが、昔から日常の中にありました。
仏像もまた、誰かに見せるためだけに存在しているのではなく、人の悲しみや不安を受け止めるために、静かにそこに座っているように思えます。
土門拳の写真には、「信仰」そのものより、「祈る人間」が写っていました。だからこそ、あの写真に惹かれるのかもしれません。
葬儀の仕事をしていると、宗教とは何かを考えることがあります。形式や作法も大切ですが、その奥にあるのは「故人を想う気持ち」なのだと思います。
人は誰かを想う時、自然と祈りの形になる。
土門拳の写真を見ながら、そんなことを考えていました。

